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一枚の写真 [日々のくらしから 家族、社会、自問]

 はじめてみる写真だった。死んだ妹を背中に背負い紐でしっかり負ぶった少年の写真。この写真は先日、NHKの「封印が解かれた写真がかたるNAGASAKI]で公開された映像である。衝撃的な写真だ。これからずっと忘れられない写真だろう。そして忘れてはならない写真だと思った。
 米軍の報道カメラマンが被爆後の長崎を軍の命令で撮影するため長崎に入り、そこで目にしたものである。原爆がもたらした残酷な姿をアメリカは公表しなかった。この写真も撮影者の苦悩と共に長く、屋根裏部屋に封印されていたものだった。
 この5,6歳と思われる少年は広島、長崎にたくさんいたろうと思われる同じような少年というだけでなく、現在も世界のあちこちにいる一部の子どもの姿でもあり、将来の子を背負う母、兄弟の姿かもしれない。核兵器は何時発射されてもいいように保管されている。
 核の脅威にさらされているいま、この写真の少年のような運命がどこの国、土地であれこれから生まれたら、わたしたちは生きていくことができない。核兵器は人間と地球にとって悪魔の兵器、困難があってもすべて廃棄する事を真剣にかんがえなければならないと思った。
 今日は長崎に原爆が投下された日である。

自由競争、自己責任という名の無責任 [日々のくらしから 家族、社会、自問]

 
 前回に書いた柴田翔氏の文がどこかに残っているはずとさがしていたら、ワープロのフロッピーの中に残っていました。『近代的思考方法への疑念ーゲーテを追って迷い込んだ世界」という朝日に載った文です。

 -人間個々の自立的な自己決定能力を前提とし、そうした人間たちの自由な結合体としての社会を構想したのがヨーロッパ近代だったとすれば、ここで表明されているのは、そうした近代の構想への根本的な疑念である。人間は、そうした自由に耐えうるほど立派な生き物ではないのではないだろうかー。
とのべたあと、柴田氏は、しかし、私にとって、人間の自己決定権は、今も否定できない価値であるといっています。
 自由と一体の関係にある自己責任は人間が自由に耐えられるだけ立派な存在であることを前提にしています。
 しかし、それほど立派な存在ではないとしたら、だといいうるのか、世界を動かす指導者でも、市井の人でもです。
 自分の選択に迷い、人との関係、社会との関係に迷い、壁にぶつかり、疑いを持つのが、またそうあるべきなのが人間ではないかと思います。にもかかわらず、日本の今の社会は自由競争と自己責任があらゆる場面に浸透しています。教育の場でも生産や労働の場でも、それは家庭のあり方まで変えているように思えます。
 なぜこんなに競争がすきになり、攻撃的になり、嫉妬やねたみ、底意地の悪い冷たい社会になっているのか。人に生かされ、人を生かして自分も生かされる安心が社会から失われるとしたら、生きることが殺伐としたものになるのではないでしょうか。


自然のなかに自由はない(続) [日々のくらしから 家族、社会、自問]

 
 学校でのいじめが、深刻な事件、自殺につながってしまう、そういうことが続発し、親も子どもも教育現場も衝撃をうけています。 どうしてこうしたいじめが頻発するのか、なぜ、それが、自殺にまでたどり着いてしまうのか、子供を助ける方法はなかったのかなど、いろいろ疑問はふくらむばかりなのですが、事態はよくなっているようには思えません。 
 いじめがなぜ起きるのか、その理由をはっきり理解することは問題を解決するためにも、またいじめを出来るだけ少なくするためにも、どうしても必要なことだと思います。いじめはある状況や環境のなかの結果としてあるので、個人の責任を問うこととは全く別だということをよく考える必要があると思います。  
 これはカントが主張した自由の解釈とつながってくると思いますが、ある結果についてのさまざまな原因のつながりは自然で、人間もその中に組み込まれた現象です。
 責任が問題として自覚されるのは自然な、社会的な因果関係がはっきりした上で、個々人が主体的に事件とのかかわりを考えた時のことではないでしょうか。
 しかし、テレビなどを見ている限り、なぜ、こういう悲しい、あってはならない事件になり、とめることができなかったのか、事実があきらかになることもありませんし、背景にある問題がしっかり検討されるということも足りないようです。
 また事件について、報道の中に出てくる教育関係者の主体的な発言がないのも、自分がない、責任もないということなのでしょうか。ちょっと辛い愚痴っぽいコメントですみません。







自然の中に自由はない [日々のくらしから 家族、社会、自問]


 最近ニュースを見る時、気が重くなります。唖然としてしまうことがあります。常識なんてことも今はなくなっているんだと思います。責任なんていうのも感じないのかもしれない、どこか成り行きまかせ、自然まかせです。タウンミーテングは裁判制度や教育制度について、有権者、市民の意見を直接聞く場として設定されたようですが、実際はあらかじめ用意された発言者に頼んだ発言だったことが発覚しました。それについて担当大臣がどう責任を感じますかと、記者に問われて、責任ってなんですかと反対に質問、自分の考えはノーコメントでした。
 本当に責任なんて分からないし、感じていないようでした。

 国政選挙で投票する人は有権者の半分くらいのようです。さらに小選挙区制になって、半分くらいの人の票は無効になる。議員は有権者の割合でいうとかなり少ない人によって選ばれるわけです。それもどれくらい、その人を知っているかと言うとほとんど知らない場合のほうが多いのではないでしょうか。この人なら絶対日本の国政を托せると思う人を見つけ出すことはかなり難しいと思います。選挙も政治も問題の深刻さに比べ形ばかりのものになっているということはないでしょうか。
 でもそうだとしたら、それは国民の問題だと思います。 

 最近読んでいた本(「二十一世紀の倫理」)にこんな言葉をみつけました。

 ー 自由があるというテーゼと自由がないというアンチテーゼが両立する。自由がないとして物事を見るべきだし、また自由があるとして物事をみるべきである。

 自由という意味を何度も繰り返し考えていましたので、この言葉は関心がありました。
 二イルは「自由の子」初め、その著作の中で、自由と放縦の違いについて書いています。自由は自律であること、また自分の権利を尊重することと相手の権利を尊重することにおいて、対等、ギブアンドテイクである、また気付くという問題だということを言っていますから、二イルも自由を思いのまま、自分の意志のままということではない、むしろ思い通りにならないのが社会であり、人の生涯でもあるということを前提にして使っていると思います。自由というのはどういう意味なのでしょうか。

 柄谷氏は「二十一世紀の倫理」の中で、カントの考えを紹介して、さきにあげた「自然のなかに自由はない」ということを言っています。 
 わたしたちが普通自由といっている意味は自分の意志で何かを選んだり、決めたりしていることをさしていますが、たとえば、どこの高校を受験するか、どこの大学を受験するかなど、自分できめていると思っていますし、社宅に入るか、思い切ってローンを組んでマンションを購入するか、老親の介護をどうするか、など、自分で決めているつもりですが、すこし考えれば、その決定も社会的な因果性の中のことで、原因によって規定されない純粋な自由などではないことがわかります。本当はもっと八頭身にうまれたかったけれど六頭身だなど、すべてこの自然必然性の中に人間はおかれていて、原因によらない主体などはないというのが分かります。 自然原因によって決定されているが、同時に自由であるとしたデカルトに対し、スピノザは自由などはないと考えたようですが、カントは「個々人は諸関係の所産でありながら、それを超越したかのようにふるまうことができる。認識しようとする意思のみが自由である」と考えたそうです。
 自由をカッコに入れたときに現象(自然必然性の世界)を見出し、自然必然性をカッコに入れたときに自由を見出すという柄谷さんの説明はとても納得がいく説明だと思いました。
 カントは道徳性を『自由である』ことにのみみいだしたといいます。自由がないなら、主体がなく責任がないことになりますから。
 自由であれ。自然的、社会的因果性をカッコにいれ、自由であることを意志することによってのみ、自由が生まれる。
 どこに、どのような両親のもとに、いつ生まれるかなど、自分の意志できめて生まれたわけではありませんが、そのことを引き受けるのは、自分に自由があったかのように、自ら始めたかのように考えることによって主体となると考えることが出来るように思います。
 主体的、自由になるということは現実生活の中でどれだけ自由がないかとは別であり、自由であれと自分に命令することによって、主体としての責任も生じる。そう考えた時、二イルのいう自由の意味もはっきりしたように思いました。

 わたしたちは半分、自然な必然性の中で物を考えているから、自由であれと自分に命令することはありません。自由であれ、真に主体であれということはとても大切なことのように思いました。


ニイルの本から 続 [日々のくらしから 家族、社会、自問]

 
 二イルの自由の子などを読みながら、未消化だと思うところもたくさんありますし、疑問が生まれることもあります。そのひとつをあげれば、命を愛するものと命を否定するものという具体的な意味だったりしました。
 近代社会が自由、平等、博愛を理想としてかかげながら出発し、そこからどう歩んできたのかと考えるとき、何百年かの経過のなかで、はるかに進展し途方もなく隔たったところにきているようにも思います。その変化を考えるとき、社会を変えるのは結局、個人のエゴ(自己愛)のあり方なのでしょうか。
 エゴと自由、放縦、抑圧の関係といった問題をどう考えるか。

  
 二イルが子どもの扱い、教育において主張したのは子どもの心と体が自由であること、と同時に自分と他人あるいは集団との関係がfifty、fiftyの対等な尊重の関係であることだったように思います。二イルの学校では教師も子どももみな同一の権利しか持ちませんでした。徹底した集団の自治によって運営されていたようですが、こうした自治は大きな単位、現実の社会にあっては不可能にちかいくらいむずかしいことです。民主主義といったものも中身がなくなって形骸化したものになり、現実はエゴの強弱にさらされていることが多いと思います。

 ロレンスが「近代人は自分しか愛せなくなった。しかし人生の目的、幸福は他人とともに感じることである」という意味のことをいっているというのを新聞記事で読んだことがありましたが、本当だなと思いました。
 二イルのいうfifty fiftyは人の愛好好悪のことではなく、命の重さ、大切さにたいする平等ということだろうと思います。
 


二イルの本から [日々のくらしから 家族、社会、自問]

安心して暮らせる公共の場をどうしたら作れるのだろうか.

 A.S.二イルの本にであったのは子どもたちが思春期前期といわれる十代に差し掛かった頃でした。いろいろ親として難しさを感じていたときでした。問題の子、問題の親、そんなタイトルが目に入ってきました。さっそく、著作集(黎明書房)を購入しおりにふれて拾い読みを。しかしいまもまだ未消化です。だが、根本的な問題を常に投げかけられてきたことは確かです。

 二イルは1925年「問題の子ども」から出発し、28年後に「自由の子」によって、どうしたら問題を持ち問題をおこすことがないような円満で善良な子どもを育てることが出来るか、また、暗く冷たい世界不安の中からどうしたら人間の未来にあかるい希望をもたらし、平和な社会を作っていこうとするような子どもを育成できるかについての彼の結論をしめしたのだった。それによって従来の子ども観を一変して、子どもの見方、扱い方に新しい道をひらいたのである。(訳者)

 しかし、二イルは1950年代にすでに将来の世界の姿を予測しています。
 彼は大人の圧迫と条件付けによって、著しい抑圧とコンプレクスを与えるのではなく、子どもに放縦でない真の自由、自律の生活を与えることこそ問題の子どもを作らない教育であり、これからの世界をよりよくしていくことに熱意と努力を持つことの出来る真の人間をつくる教育であると考えたのですが、世界はかならずしも二イルが主張したような自由を子どもにあたえてきたわけではないと思います。
 大人の側からの条件付け、訓練が必要だというのは社会の大勢の意見ではないでしょうか。
 ニイルのいう子どもに放縦でない自由、自律の生活をあたえるということはどういうことか、イメージすることがむずかしいと自分でも感じました。
 二イルのいう自由、自律というのは親も子も、またほかの人との間でも対等の権利を持ち、意見を述べたり、考えたりして自分のことを決定することができる、そういう意味の自由をさしています。それはたんに束縛や圧制から解放されるという意味だけでなく、自分について自分で統御し自分の生活を営むことのできる真の自由の意味でした。
 子どもには理解と愛が与えられ、自治が与えられることが自律的で創造的、他人と協調的な関係を作れる子どもを育てる道というニイルの考えに賛成したとしても、現実にはすぐにいろいろの困難にぶつかることを感じた親は多かったと思います。

 政治は、人類の重要問題に触れていない。保守主義、自由主義、社会主義、共産主義、いずれの主義のもとにあっても若者への圧制は行われ、子どもは条件付けによって育てられ、象徴的に去勢されている。大人は子どもに対し、歴史の針を後へ戻した生活の仕方を教える。誰もが教師におしえられた知識以上のものを人に教えることが出来ないとしたら、若者にむかっていかに生きるべきかをあえて教えうるほど誰が善良であり、だれが賢明であるといえようと二イルはいいます。
 将来の幸福は政治的組織によるとは彼は考えなかった。将来のたたかいは命を愛するものと命を憎む者との戦いであるとのべています。
 二イルは命の基本のところで考えているように思います。真の自由を見出すことができない世界は憎悪と犯罪と戦争の病的な神経症的な世界をつくりだしているといい、世界が反動化していると将来を予測し警告しました。

 二イルが指摘したように、今の世界が幸福で安心して暮らせる社会のほうに近ついているのか、進んでいる面とそうでないところと並行しているようにも思われます。

  続きは次回に。


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