ニイルの本から 続 [日々のくらしから 家族、社会、自問]
二イルの自由の子などを読みながら、未消化だと思うところもたくさんありますし、疑問が生まれることもあります。そのひとつをあげれば、命を愛するものと命を否定するものという具体的な意味だったりしました。
近代社会が自由、平等、博愛を理想としてかかげながら出発し、そこからどう歩んできたのかと考えるとき、何百年かの経過のなかで、はるかに進展し途方もなく隔たったところにきているようにも思います。その変化を考えるとき、社会を変えるのは結局、個人のエゴ(自己愛)のあり方なのでしょうか。
エゴと自由、放縦、抑圧の関係といった問題をどう考えるか。
二イルが子どもの扱い、教育において主張したのは子どもの心と体が自由であること、と同時に自分と他人あるいは集団との関係がfifty、fiftyの対等な尊重の関係であることだったように思います。二イルの学校では教師も子どももみな同一の権利しか持ちませんでした。徹底した集団の自治によって運営されていたようですが、こうした自治は大きな単位、現実の社会にあっては不可能にちかいくらいむずかしいことです。民主主義といったものも中身がなくなって形骸化したものになり、現実はエゴの強弱にさらされていることが多いと思います。
ロレンスが「近代人は自分しか愛せなくなった。しかし人生の目的、幸福は他人とともに感じることである」という意味のことをいっているというのを新聞記事で読んだことがありましたが、本当だなと思いました。
二イルのいうfifty fiftyは人の愛好好悪のことではなく、命の重さ、大切さにたいする平等ということだろうと思います。
アルマ様ナイスありがとうございます。
by 風船かずら (2014-01-17 17:49)
アルマ様、さらまわし様、過去記事へ訪問くださいましてありがとうございます。ブログを始めようと思ったきっかけは広くいろいろな人を知り対話したいと、特に自分に関心のあるテーマについてコミュニケイションができたらと思ったからだったのですが、これからもよろしくおねがいいたします。
by 風船かずら (2014-02-02 13:10)