二イルの本から [日々のくらしから 家族、社会、自問]
安心して暮らせる公共の場をどうしたら作れるのだろうか.
A.S.二イルの本にであったのは子どもたちが思春期前期といわれる十代に差し掛かった頃でした。いろいろ親として難しさを感じていたときでした。問題の子、問題の親、そんなタイトルが目に入ってきました。さっそく、著作集(黎明書房)を購入しおりにふれて拾い読みを。しかしいまもまだ未消化です。だが、根本的な問題を常に投げかけられてきたことは確かです。
二イルは1925年「問題の子ども」から出発し、28年後に「自由の子」によって、どうしたら問題を持ち問題をおこすことがないような円満で善良な子どもを育てることが出来るか、また、暗く冷たい世界不安の中からどうしたら人間の未来にあかるい希望をもたらし、平和な社会を作っていこうとするような子どもを育成できるかについての彼の結論をしめしたのだった。それによって従来の子ども観を一変して、子どもの見方、扱い方に新しい道をひらいたのである。(訳者)
しかし、二イルは1950年代にすでに将来の世界の姿を予測しています。
彼は大人の圧迫と条件付けによって、著しい抑圧とコンプレクスを与えるのではなく、子どもに放縦でない真の自由、自律の生活を与えることこそ問題の子どもを作らない教育であり、これからの世界をよりよくしていくことに熱意と努力を持つことの出来る真の人間をつくる教育であると考えたのですが、世界はかならずしも二イルが主張したような自由を子どもにあたえてきたわけではないと思います。
大人の側からの条件付け、訓練が必要だというのは社会の大勢の意見ではないでしょうか。
ニイルのいう子どもに放縦でない自由、自律の生活をあたえるということはどういうことか、イメージすることがむずかしいと自分でも感じました。
二イルのいう自由、自律というのは親も子も、またほかの人との間でも対等の権利を持ち、意見を述べたり、考えたりして自分のことを決定することができる、そういう意味の自由をさしています。それはたんに束縛や圧制から解放されるという意味だけでなく、自分について自分で統御し自分の生活を営むことのできる真の自由の意味でした。
子どもには理解と愛が与えられ、自治が与えられることが自律的で創造的、他人と協調的な関係を作れる子どもを育てる道というニイルの考えに賛成したとしても、現実にはすぐにいろいろの困難にぶつかることを感じた親は多かったと思います。
政治は、人類の重要問題に触れていない。保守主義、自由主義、社会主義、共産主義、いずれの主義のもとにあっても若者への圧制は行われ、子どもは条件付けによって育てられ、象徴的に去勢されている。大人は子どもに対し、歴史の針を後へ戻した生活の仕方を教える。誰もが教師におしえられた知識以上のものを人に教えることが出来ないとしたら、若者にむかっていかに生きるべきかをあえて教えうるほど誰が善良であり、だれが賢明であるといえようと二イルはいいます。
将来の幸福は政治的組織によるとは彼は考えなかった。将来のたたかいは命を愛するものと命を憎む者との戦いであるとのべています。
二イルは命の基本のところで考えているように思います。真の自由を見出すことができない世界は憎悪と犯罪と戦争の病的な神経症的な世界をつくりだしているといい、世界が反動化していると将来を予測し警告しました。
二イルが指摘したように、今の世界が幸福で安心して暮らせる社会のほうに近ついているのか、進んでいる面とそうでないところと並行しているようにも思われます。
続きは次回に。
「放縦でない真の自由、自律の生活」「対等の権利を持ち、意見を述べたり、考えたりして自分のことを決定することができる、そういう意味の自由」「自律的で創造的,他人と協調的な関係を作れる子どもを育てる」ところに風船かずらさんは子育て、教育の目的を見ていらっしゃいますが、至言だと思います。次回が楽しみです。
by カスミソウ (2006-11-25 18:28)
コメントありがとうございます。一人ひとりが市民として、自分の考えをもつことが民主主義の基本だと思いますが、自分なりの判断をすることは難しい。複雑に世界が直接つながってくると。でも身近な足元から、自分に見える現実をしっかりみる、そういう努力はしたいと思いますね。
by 風船かずら (2006-11-27 23:56)