SSブログ
前の10件 | -

ブログ一年生

 ブログを開いてみようかなと思いはじめていた秋の初め。秋風のそよぎのなかで、ゆれている風船かずらの風船玉が目にとびこんできました。涼やかな緑、愛らしい風情に、思わずニックネームにいただきと思いました。
 実際に公開するまで時間がかかったのは、まだパソコンの操作になれていないため。本当に大丈夫?と今も思っています。
 内向的で小心、懐疑的、典型的なA型人間だと自分では思っていますが、長い付き合いの娘はお母さんがA型だなんて、信じられないといいます。アバウトでおっちょこちょいなのを良く知っているからのようです。こだわっていることがいくつかあって、その私の穴倉のような生活のベースが1.5×4の狭いスペース。この狭いスペースから少しでも広い世界へ、、、希望。


 


 


nice!(0)  コメント(0) 

加筆、そしてお礼とお知らせ

加筆

  ここから先は追加部分です。夕飯の支度の時刻が迫っていたので急ぎ切り上げたのですが.

 日記なら人に見せることを前提にしないから何を書いてもいいのですが、ブログに書くときは迷ったり考えたりします。でも誰かと自分の知らない人ともコミュニケイションすることの積極的な意味もあるのではという気持ちのほうが若干強くなったりして書いています。

  最近考えていたこと、前回も触れましたが、これからの日本の進み方を巡って重大な変換点にきているという認識は安全保障関連法案の審議の中にも、賛成反対どちらの考えの人の中にも共通した認識のように思います。その法案が今朝国会で議決成立したようです。この成立を持って終わりではない、一つの重要なエポックであることは確かですが、ある意味では平和主義と現憲法の理想主義では平和を守れないという考えとの相克がはっきりしている結果のように思います。今回の国会審議の過程ではっきりしたことはなんでしょうか。

 いろいろありますが最も大きな問題の一つは現憲法が明示している集団的自衛権の否定を解釈によって変更したことだと思います。現実的には日米軍事同盟の強化と日本の軍隊がアメリカの防衛も一部負担する可能性に道を開いたことではないかと思います。自分の国が他の国から攻撃された時の自衛権は今までも憲法上も認められると考えられていたのですが、これからは日本が直接攻撃されていないときでも、同盟関係にあるアメリカの戦艦や戦闘機、通信その他の防衛が法律上可能になり、実際上は日本とアメリカの共同軍事行動が強化されるでしょう。この安保法案の前に秘密保護法が制定され、どういう歯止めがかかるのかは明確にはされなかったことではないでしょうか。国民が一番懸念していることは、安倍政権が最初から国会での安定多数の上に、国会審議より前にアメリカにおいて法案の成立を約束し、国会審議の中でも、重要な野党の指摘にはあいまい、時には前後の統一のないはぐらかしの答弁に終始、疑問は明確にされないまま、採決されたことです。日本の憲法は今も健在です。日本憲法の平和主義は世界が混沌とし、暴力による制圧、衝突が繰り返され、希望が損なわれ、その犠牲となる人々が数多くいるなか、人類の行く末を考えるうえでも大事な理想だと思います。現実は単純でもなければ、一つの考えで進むわけではないのですが、複雑さの中で理想は追求されなければならないと思います。

 一国だけで平和は守れないということが法案賛成の人から多く聞かれました。現憲法の平和主義を世界の憲法にと考える人たちでも一国だけで平和が守れるなどと考えている人はいないでしょう。どう平和を目指すか手段の問題で、アメリカとの軍事同盟を強化することが世界の平和貢献に役立つという考えについても、このことが安保法制の理由でもあったのですが、もっとしっかり国会で討論すべきことではなかったかと思います。アメリカも一つではありません。どんな大統領が出るか、いろいろな考えがあり、またアメリカも自国の国益を考えることでは他の国同様でしょう。日本に自分の国の国民の生活安全からイエス、ノウをはっきり言う力があるのでしょうか。

 それはこれから主権者である国民が決めることだと思います。若い人たちが政治に無関心と長いこと言われてきました。六十年代から七十年にかけては若い人も政治に関心を持っていたと思いますが、それから四、五十年の間に変わりました。だが、これからの国の在り方、暮らしは彼ら自身、若い人の問題でもあります。地球の未来、人類の未来を考えれば戦争は絶対悪であり、解決されなければならない問題は複雑で多様だと思います。学んで知恵を出して、古い時代を超えてほしいと思います。そして隣の国、中国、韓国、北朝鮮とどうしたら平和な関係を築けるか、考えてゆきたいですね。

  信仰としてではなく、特にお釈迦様の本を時々読むようになって、私(自我)と空、無私との関係が気になっていました。私はいるのに「空」とか「無私」とか実際にいる私とどういう認識になるのかしら、長い間疑問だったのですが、だんだん腑に落ちてきたように思います。実際の私は苦しいとか、悲しいとか不安とかをしばしば感じたりして、つい最近だって、なぜか哀しくて、不安で無力感にとらわれていたりしました。実際に生きている人間は喜怒哀楽から自由に無関係ではいられない。釈迦がこんなことを言っているというのを小池龍之介さんの「ブッダの言葉」で読んだことがあります。「私はこれまでいろいろのところに出向き、いろいろな人に出会ったが、自分が一番かわいい、そうでないという人に出会ったことはないと。」人は自分が一番かわいいのだということを認めていいのだと思います。しかし人は生まれ落ちたその瞬間から人の中に、世界の中の存在として生きるのですから、たった一人誰もいない孤島で生涯生きるのでないことを考えれば、私だけの世界などでないことがわかります。ですから人の一生は自分と他人、自分と世界との関係の問題なのでしょう。そこにまた生きることの意味、豊かさもあるのでしょう。

 人生を背後から操る黒幕は?生存本能の無意識な命令のままに無自覚に支配される奴隷のような、自己愛とか我執といったもの、それが黒幕なのだとお釈迦様は悟られた。他者と自分との関係やカルマの法則を自覚すること、自我や自分の欲望といった自分を超えてみることが必要なのかと思いました。ある意味の自己否定、無になるということなのだと思いました。小池龍之介さんの「ブッダの言葉」によると欲、怒り、迷いという名の悪をつくらず、心を善く整えておき、心を清め性格を改善してゆくこと、これが仏教の教えのエッセンスという言葉、よく考えてみたいと思いました。

 お詫び&訂正 &お知らせ 

  阿部、どうも変? 阿部って誰じゃ。ずっと間違ったまま、私の頭大分老化しつつあるかも。安倍の間違いです。昔からうっかりしているところがあるので、すみませんでした。

   今回の記事を最後にこれからの記事の更新はおわりにしようと思います。長い間訪問やナイス、コメントをくださいました方々に深いお礼を申し上げます。いろいろな方のブログへの訪問はこれからできるかと思いますのでよろしくお願いいたします。ちょうど始めてから十年、その間に書いた記事はかなりの数なのですが、そもそもブログを始めた中心テーマのなかから一部だけ消去しないで残すことにしました。最近若いかたの訪問もあったように思うのですが、高齢の人にとっても若いこれからの人にとっても課題は同じ、意見の交流があるのは大切と思います。家族、社会、主体などのテーマの過去記事ものぞいていただけたら嬉しくいます。

            2006年10月から始めたブログ,マンネリ化したように思い閉じましたが、新しいブログを更新しています。

  http://it18skbl.blog.so-net.ne.jp/  hikariと雲と  気が向いたらお立ち寄りくださいませ。


黙っていたいと思うけど、、。 [日々のくらしから 家族、社会、自問]

何も言いたくない、いつも葛藤します。ブログも自分のパスワードを忘れてしまうくらい遠ざかっています。昨日与党議員(公明党)が政府への質問に立っているのをたまたま聞いていました。国会の論戦も見たいと思わなくなっていたのに見たのは偶然でした。パソコンでニュースを見ることもそんなに多くない。でもこんな記事や国会での議論に出会ってしまうと、、、。黙っていていいのだろうかと思ってしまう。

 防衛費の無駄遣いワースト5。 割高な兵器を拡大する防衛予算でかいまくり。

 なぜアメリカ陸軍が導入を見合わせたオスプレイをそれより二倍もの価格で購入するの?

 ほかにもっと安価で性能もよい戦闘機があるらしいのに一機200億円という史上最も高価な戦闘機を購入するの?

 その日の暮らしを支えるにも苦労している国民が多い、限界集落になりそうというくらい中央と地方の格差も大きい、解決しなければならない問題は山積して決して税金をふんだんに使えるわけではないのに???未来の子供たちもふくめてしあわせな世界で暮らせますようにと思う国民の一人として考えなければと思う。

 三重中京大学名誉教授浜谷英博三氏の「政府案は間違いなく合憲」という発言の中で、「学者は政策に責任をおっていないし、負わされるべきでもない。そうでないと学問の自由は有名無実になってしまう」 政策の結果に責任を負っているのは政治家。責任を負わない学者の意見は政策を拘束するものではないという。この発言、ごく限られた狭い意味では決定は政府がするのですが、、、なにか根本的に間違っているのではと思うところがありました。

 政策決定の責任は明らかに政府が負うべきものですが、その結果責任を過去において政策決定者がきちんととってきたでしょうか、また本当に結果責任を政府だけが負えるものなのか疑問に感じます。戦争責任一つとっても決定し実行した責任は重大ですがその責任をとれたでしょうか。結果責任をとれるのは政府あるいは政策責任者だけではなく、結果は国民全体、ひとりひとりへの影響にかかってくるのです。結果は全体のもので、その意味でも学者は自分の責任において、専門性において発言しているのでしょう。結果を受け取らざるを得ない国民も考えなければならないのです。

 結果責任を負えないのだからこそ、慎重で謙虚であってほしい、人の意見、国民の声を十分に聞いてほしいと思います。


安倍政権、安全保障関連法案への疑問 [日々のくらしから 家族、社会、自問]

 安全保障関連法案は関連する10ほどの法案の一括審議で、先ほど衆議院で強行可決されました。ふつうひとつの法案でも十分な審議が必要ななかで一括で、百時間ほどの審議をしたから十分議論した、決めるときには決めなければならないという安倍首相、政府の主導で衆議院の審議はおわりました。

 議論に時間をかけるごとに疑問、問題点はどんどん出てきたように思います。多くなる疑問や問題点にはっきりした政府の回答はないまま、その意味では最初から政府の主張と野党の疑問とは平行線の様相で本当に議論が尽くされたとは見えないと思います。

 これからの日本の在り方を左右するだろう基本的重要な問題を数の多数で強行するやり方はファッショ的とさえ言われても仕方がないと思えます。とても民主主義を基本にしているとは思えません。政府が、リーダーは常に一歩大衆より先を読んで歩かなければならないと考えているとしても、国の最高法規としての憲法と立憲主義、国民の代表としての議会を無視したり、ないがしろにしていいことにはならないでしょう。憲法があるにもかかわらず、その憲法を無効にしたヒットラーが進めた過去の歴史。安倍さんに感じる不安の一つがあまりに自分の考え一つでことを運んでいることです。

 政府のこの間の主張は、国際情勢の急激な変化に伴い、緊急の事態、紛争の予防には一国では対処できず、集団的安全保障が必要である。また切れ目のない法整備が必要であるという説明です。

しかしこの主張にもいくつもの重要な指摘、疑問が出されています。 確かに国際情勢は日々激しく複雑に変化していて、その中でどう平和を維持していくか、自分の国と世界との平和をどうしたら図れるのか、単純でも簡単なことでもないということは国民のだれもが考えていることです。

 複雑、様々な動き、努力が重なり合って世界は動いているのですから、平和への努力も色々あってしかるべきだろうと思います。第二次世界大戦後、七十年間、日本が戦争の放棄、武力による紛争の解決はこれを否定、交戦権は持たないということを国の基本として戦争をしないで過ごせてきたのは戦争を体験した国民が過去の戦争の惨禍と犠牲によって戦争の恐ろしさ、愚かさを身をもって知ったことも大きい。平和憲法は押し付けられた憲法だから自主的憲法の制定をと言う主張もありますが、戦争はしてはならない、その理想を戦後日本の人々が自分の理想として歩んできたからだと思います。そしてその理想はこれからも国内にあっても、国際の関係にあっても引き継がれ追求されていかなければならないことではないでしょうか。

 私は政治的な発言をすることはあまり好きではありません。政治はエゴのぶつかり合いですきになれないからなのです。でも個人的な自分なりの生き方、努力、多様性などひとたび戦争になれば意味を持たなくなってしまうのです。個人などはなくなり、一つになって同じ方向に走り出さなければいけなくなるのが戦争です。相手の国の人にとっても同じでしょう。戦争は殺し合いなのですから。一度だけ自分の気持ちを書くことにしました。

 友人の一人に両親が戦争が始まろうというとき戦争反対の運動に参加して、故郷の人には赤と指差され、反戦運動をしたために一番危険といわれていた中国の前線に送られた人があります。父親のあとを追うようにして一家は中国に渡ったようです。父親は戦死し、母親と一番年上の十二、三才くらいの兄を先頭に幼い弟妹の手を引いたり背負ったりしながら、五人で高粱畑の中を昼間隠れ、夜に歩くようにしてやっと帰国してきました。彼女は非国民といわれても子供を戦争にはいかせないといいます。 徴兵制がなぜ苦役なのかと石破さんはいいました。国を守ることなのにということなのでしょう。なぜ苦役でないのか、戦争という手段を認めたくない私はどうしたら良いのかと思い惑ってしまいます。戦争をしないで共生する道を探したいです。

 先日の新聞に日本が購入することになっているオスプレイ17機のうち、第一陣5機、410億円が発注されたと報道されていました。財政難の中戦費もふくらんでいるのですね。


うつになりまして。

 今年は大殺界の三年目、占いを信じているわけではないけれど、年の初めにちらと見たところ気になることが書いてあり、実際この半年余り気持ちがぎりぎりのことが多かった。今までは自分の力がないことは分かっていても前向き、ニヒルが嫌いで何年かかかって少しずつ日常の生活の目標を固めつつあったのにやりたいと思っていたこともどうでもよくなったというか何かをする気がなく、一日ぼんやり寝ていたい、食欲もゼロ、食べたくないから買い物も食事つくりもしたくない、といっても家族もいるからそんなこともできないという有様だった。そんな時主に読んでいたのは仏教関係の本と「うつと上手に付き合う心理学」(高橋量斉著)だった。仏道にいう認知と心理学の認知は通じ合うところがあると思った。鬱と上手に付き合う心理学は本当に出会いだなと思う本だった。その日、神保町に映画を見に行ったのも本当に全くの思いつきだったし、その日が書籍祭りで、本を買うつもりなどなかったのに数多くの本のなかでちょっとだけ立ち寄った道端でこの本を買ってみたのも、そのあとあまり読みもしないでいたものが、私にとってとても必要な本だったなんて、百パーセントの必然もない中での出会いだったなんて不思議なものだなあと思った。

 四苦八苦しながら私は何かがはっきりし始めていた。それがはっきりすると少しずつ不安や苦痛をこれまでと違って考えられるようになったように思う。少しずつやりたいことが戻ってきて、少しずつ依然のように忙しくなってその中で自分らしいバランスが取れるようになれたらと思う。


コミュニケイション下手 [日々のくらしから 家族、社会、自問]

 「愛と愛好はちがう」などの著者であるバスカリアさんは著書のなかで子供時代の家族について、「裕福ではなかったが、家族の全員がみんなの問題について、いろいろ意見を出し合って助けたり、どんな困ったことでも話を聞いてもらうことができた。それは小さな子供でも年齢や親子、兄弟の上下関係とかなく、一人ひとりの意見として対等に受け入れられた。だから、生きていくことに勇気をもらえた」と言っています。

 私は自分の子供のころを振り返ってどうだったかしらと考えます。母は優しい人でした。母が大好きだったという意味で母娘の一体感はあったと思いますが、バスカリアさんの言うような家族がみんなで意見を出し合って、助け合えたというところは随分違うなという感じがしました。

 本当にこんな暖かな、家族のみんながお互いを大切にして自分のこととして意見を出し合える家族だったら、少々の困難にであっても勇気をもらえることでしょう。しかし、日本では少なくない家庭で、家族だからこそコミュニケイションがむずかしい、本当は大事なこと、心の底で思っていること、本当は分かってほしい気持ちが伝えられることがなく、一人一人孤立化と家族の機能不全に陥ってしまっているなんてことはめずらしくないのではないかと思います。コミュニケイションが下手な理由はいろいろあるように思いますが、これって重要だなと思います。

 日本の家族の伝統の中にもともと自由な会話という伝統は少なく、一家の長や目上の人の考えに従うことが多い、直接言葉にしなくても何となく察するという配慮など日本人らしい心の使い方が生活の全般に行き渡っていたように思います。察するということには良い面もありますが限界があると思います。現代のストレスが過剰にひとりひとりに直接働く社会ではその一人一人の問題として表に表現されなければうちにこもって内向してしまうばかりです。昔からの伝統的なコミュニケイションでは限界があるのではないかと思います。

 私もそんなコミュニケイションのむずかしさをながいこと感じてきました。話せない、伝わらない、相手の考えや本当の気持ちがわからない、家族のことで悩んでいるときそんな苦しさを味わっていました。 生まれてこなければよかった、その言葉を何度聞いたことでしょう。辛いことは分かっていましたがどうして? わたしは親失格だなと思ったことも。

 最近二冊の本を読んでいました。

 コミュニケイションの下手な家族というのはそれまでの育ちのなかにあたたかな、お互いにとってプラスになるような会話の経験が少ないということがあるのではと思いました。夫婦が真剣に話合うことを当然とどれくらいの家族がしているでしょう。

 話し合いがない大きい理由は話し合いの必要を本当は感じていないからのように思います。小池龍之介さんが本のなかで現代人は一般的に「聞く」ということに心を向けて寄り添わせること、集中して人の話を聞くということが苦手になっているように思うと書かれていました。重要な問題であっても直面することから逃げていたり、はじめから限界やだめだと諦めたりしている場合があるようです。自分の立ち位置をこのようにはっきり固めてしまう、それも理解できないではないのですが、それではすまないことがたくさんあり、簡単では済まない問題ほどよほど力を合わせて、お互いの心が見えるようにしないとよい方向には向かわないのです。

 誰もが完全ではないのですから、時にはお互いにしんどい会話になってしまうことも避けられません。1人1人皆違い、そして一人ひとり不十分で欠点だらけでそれでも素の自分を出して理解しあう、そういうシンドさを覚悟しなければ現代という時代の困難さをきりぬけてはいけないのだと思います。本当に会話が成立するのは自分が変わりたいと真剣に思い、求めて求めて、きっとどこかに光があることを信じて自分が変わり続ける努力をすること、そこにコミュニケーションが生まれるのかもしれません。

  年初めに見た占い、大殺界の三年目、あまり良い年ではなさそうです。気になることが書かれていました。厳しい坂を越えなければならない年なのかもしれません。


違和感 [日々のくらしから 家族、社会、自問]

 安全保障関連法案を巡る国会審議がはじまっています。国論は大きく言うと二つにわかれているようです。一つは世界情勢の変化に伴い、集団的自衛権が必要である。さらに戦争の放棄、武力行使の禁止をうたった憲法の縛りから、時代に合った安全保障政策に変えていこうという考えと一方には国際紛争解決の手段としての国権の発動としての戦争、武力による威嚇又は武力の行使は永久にこれを放棄すると定めた憲法九条を守り、さらに他国との関係において一層憲法9条の考えを追求すべきという考えとの間の開きのように思われます。複雑でわかりにくいのは解釈改憲によって明らかな憲法九条との矛盾をむりやり推し進め事実上の改憲をしていることだと思います。

 安全保障関連法案の成立を必要とすると政府がいう世界情勢の変化について、日本の存立があやうくなるかもわからないような緊張や武力衝突の危険とよく考えないでスラスラと受け入れていいものなのか、どうも違和感をぬぐえません。その世界情勢をどうみるかということも大切だと思います。さらにもし、国家間、地域間の紛争や対立のようなものがあるときほど戦争や武力の行使を避け国と国、地域間の平和への努力が必要と思うのですがどうでしょうか。戦後の日本は戦争の放棄と交戦権の否定のもとでそういう努力もしてきたと思います。今議論されている安全保障関連法がそのような目的にそうものなのか国民一人一人が真剣に考えなければならないのだと思います。

 曽野綾子さんの「ある神話の背景」を読んだのはもう何十年か前でしたが、今もう一度読んでいます。沖縄の渡嘉敷、ケラマという島の名前を知ったのはこの本でしたが、読んだ時の衝撃が大きかったので、友人の何人かに感想をはなしたことがあります。友人の一人は曽野綾子さんの本を読むとイライラして頭が痛くなるといっていましたが、読みなおして確かに視点が独特だと思うところがあるように感じました。それはさておいて、本に書かれていることは衝撃的で重い内容です。曽野さんはそれぞれの立場の人の証言を選択しないで載せているので、島に最後まで残った人間魚雷を装備した海上特攻隊の赤松隊の状況や軍人の考え方、家族が家族を殺しあう悲劇の背景が見えてきます。この本を読むまで、いろいろな映画や本などで知ってはいましたが、本当の戦争の惨さ、非人間性、どんなに戦争が平静からほど遠い地点に人間を連れ去るものか、あらためて真実を知らされたと思いました。沖縄だけではありません。こういうことをこれからの世代に味あわせることはあってはならないと思います。大東亜戦争当時も今も沖縄が背負わされてきた過酷な歴史を思うと沖縄の人びとが世界で一番危険といわれる普天間基地の撤去を願い、さらに新しい基地の建設には県民がひとつになって反対する気持ちは当然だとわたしは思いました。

 不安感と違和感の中で、保坂正康氏の「本当に平和ということを考えるならば、戦争を知らなければ決して語れないだろう。だが日本という国は、あれだけの戦争を体験しながら、戦争を知ることに不勉強で、不熱心。日本社会全体が、戦争という歴史を忘却していくことが一つの進歩のように思いこんでいるような気さえする。国民的な性格の弱さ、狡さと言い換えてもよいかもしれない。」という言葉を重く、受け止めたいと思いました。


わずかでも戦争を知っている最後の世代から [日々のくらしから 家族、社会、自問]

 150402_1403~01.jpg

 地元の人がおもに訪れるのでしょうか、川べりは満開の桜なのですが見に来ている人はほとんどみかけませんでした。川魚を探していた高校生のグループやこの春幼稚園に入るという制服を着て写真に納まってピースしていた男の子とお母さん、こんにちわと元気に挨拶してくれました。 のどかな風景です。

 春真っ盛り。二日続けての花見になりました。昨日は雲一つない快晴、翌日からは下り坂というのでかねてから尋ねてみたかったお寺をたずねることにしました。知らない街をのんびり一人旅です。比確的新しい街並みなので駅を降りてしばらくしてぶつかる街並みは広い街路と二車線の幅広の道路、都心のようなビルはないので空が広く明るい印象です。本を一冊持って今日の目的は読書と花見とお寺さんを訪ねること、健康のために歩くことです。三時間強歩いたでしょうか。

 血圧と中性脂肪を下げる薬を朝、一錠ずつ飲むようになったためか、百をちょっと出る程度に下がりました。下がりすぎかな。薬には慎重になってしまうわたしです。ちょうど昼時なのであまり食欲はありませんでしたが、手打ちそばのおいしそうな店があったので、そこでエビ天せいろをいただきました。きりっとした腰のあるかみごたえがあっておいしい蕎麦でした。

 最近テレビを見ることは随分少なくなりました。ニュース系は一日一回くらいどこかの局のニュースや報道番組を見るくらいであまり見ません。こころの平安のためには。最近のテレビ番組、お笑いバラエティ、旅や食べ物などの番組がめじろおしですね。こころを使う疲れるようなことは視聴者も避けたいのでしょう。国会討論など本音を隠してどれだけ相手を説得するかそんな印象さえうけてしまうことがあります。おかげで本を読める時間がふえました。今日持参したのは最近店頭で見かけた「日本に恐ろしい大きな戦争がせまりくる」という本です。この本をどう評価したらよいのか、不勉強なので私にはわかりません。しかしずっと終戦から70年を経て今起きていることをずっと見ながら生活して何かおかしいと感じてきたことや、世界の中で起こっていることの中心にどんなことが推移しているのかを知りたいと思っていましたので、ふつうの人では知りえないアメリカ政治の内情、世界の政治の裏側などなるほどと実感と一致するところありました。ただ何かを判断したり、考えたりするうえで、一つの本や一部の本だけに頼ることはしたくないと思いますし、その時考えた自分の考えも何度も検証しなおして懐疑する必要があると思っています。

 私と同世代の人はだいたい太平洋戦争が始まる前後から終戦までのころに生まれています。当時に生きていた大人は皆、あんな戦争はもうしてはならないといいますが、その時代を生きた人たちは少なくなっていて、大多数は戦後生まれの戦争を知らない世代の人たちです。人類はこれまで七、八十年に一度大きな戦争をしてきているそうですが、この七、八十年という時間は考えてみると、同じ時間に生きていた祖父母、父母、子供という三世代が一巡して入れ替わる時間です。つまり祖父母の時代、父母の時代の経験は子供あるいはその子どもの子供には体験としてはゼロなのです。子どもはまったくあたらしいところにいるわけです。今の若者、子供たち、あるいはその親たちは昔の子供や若者とは比較できないくらい、国のかべや人種の違いによる偏見、差別意識から解放されて、同じ人として交流できて、問題があればそれを解決する力も備わっていると思います。しかし戦争の時代に子供だった世代が戦争を知る最後の世代で、その人たちも残り少なくなっている今、戦争時代の経験をできるだけ広く、正確に知ってほしいと思います。戦争とはどういうものかを知ることができるでしょう。そしてなぜ戦争になったのかを知ることも大切だと思います。

 少し前になりますが、何十年ぶりかで、学生時代の同級生七、八人が顔をそろえたことがあります。全国に散っているので会えたのは本当に久しぶりでした。日本的な涼やかな感じの美人さんだったAさんのその後をまるで知らないでいましたので、現在は保育園を経営して畑仕事などを楽しんでいるというお話にも驚きましたが、もっと驚いたのは彼女が話してくれた子ども時代のことです。同級生や仕事仲間からもいろいろの戦争体験を聞きますが、彼女が北満州から引き揚げてきたことは初めて知りました。彼女もこれまでクラスメートに語ったことはないそうです。その少し前に「星になった子供たち」という映画をみていたのですが、彼女が暮らしていたところは同じ開拓村で、戦争の終わりから日本に帰りつくまでにであった苦難はあの映画の子供たちと同じものでした。その中で彼女が忘れることのできないエピソードを話してくれました。やっと帰国船にのるというときに、彼女のお母さんになついてついてきていた一人の少年を置き去りにせざるをえなかったそうです。その少年は親兄弟もなくたった一人だったそうです。お父さんがそんなことを言っていられる時かと激しくお母さんを叱責したそうです。子どもには恐怖や飢え、寒さなどの記憶しかなくてもあの時代、子供をまもらなければならなかった親たちの気持ち、苦労はどんなだったでしょうか。

 職場の人たちが戦争体験を記憶に残そうと文集を作ったことがありました。軍国少女だったという一人の人は今もスラスラあの歌を歌えるといいます。

 勝ち抜く僕ら少国民

 天皇陛下のおんために

 死ねと教えた父母の

 赤い血潮を受け継いで

 心に決死の白たすき

 かけて勇んで突撃だ

 「日本に大きい戦争がせまりくる」というこの本は誇大な脅しではなく、混迷する世界の中で、いつ大きな衝突に日本が突入するかもわからない危機をふくんでいる今、頭の片隅に入れておいていいことではないかと思いました。

 絶対に戦争をしてはいけないという固い決意と覚悟が必要だと思います。平和のなかでお互いの命を大切にして生きる道を何としても探さなければならないと思います。


これってやばいでしょう。

 自分でも自分が信じられないくらいのミス続きです。

 青果店で買い物を済ませ、両手いっぱいの荷物を整理しようとレジ横の棚に荷物を載せ、手に握ったままの釣銭を財布にしまおうとしたとき、財布がなくなっていることに気が付きました。荷物のどこを探してもありません。支払のために財布から五千円札を出し釣銭をもらい、しまおうとした時までの時間はわずか、一分もないほど。財布には健康保険証からキャッシュカード、各種カードまで入っているのですから焦ってしまいました。家の鍵が別だったのは助かりました。泣きべそをかきながら家に帰り、カードを止めたりして、実害はわずかでした。

 とはいえ、近頃こんなミスが多い。それにしてもなぜわずかの間に財布が消えていたのでしょう。落としたことに気付かなかったか、財布を入れていた手提げ袋を荷台に乗せて、整理しようと荷物のほうに気を取られている一瞬間に財布がぬかれたかのどちらかでしょう。近くに落ちていなかったところをみるとぬかれたのでしょう。 近所で振り込み詐欺にあいあやういところで難を逃れた人もあったようです。ぼんやりできません。ひどい世の中になりましたね。

 確実に物事の処理能力は量的にもスピードも落ちるのに、対処しなければならないことが少なくなるわけでもなく、むしろ多くなって頭の中が右往左往状態です。

 世の中がどうであろうと気持ちが拡散し続けて自分を失うのではなく、中心の自分をはっきりさせ、自分に合う生き方を取捨選択とスリム化に取り組む、まだ時間がかかりそうです。一生整理できないで終わる人だっているのよと友人に言われましたが本当にそうですね。 

 五キロのダイエット難しいですね。


弱者に対して恐ろしいほど酷薄な国 [日々のくらしから 家族、社会、自問]

日刊スポーツの政界地獄耳という記事で、岩波書店のPR誌、図書での赤川次郎さんの言葉がのっていました。

 政府の産業競争力会議での女性を活用という成長戦略について「今、日本は弱者に対して恐ろしいほど酷薄な社会になってしまった。とくに子どもの貧困や、母子家庭の半分が年収120万以下という状況は、とても文明国とは言えない。こんな状況を放置して「女性の力の活用」など平然と発言できるのはどういう神経なのか」、、、という内容、日ごろニュースに接するたびに感じていることと同じでした。日本は弱者に酷薄、鞭打つような国になっていると感じるのは多くの場合自己責任と思われているからかもしれません。誰も問題を表に出すことができない、それは自分の努力の足りなさ、責任を公にすることでしかないからです。

 次の時代を担う子どもを育てることがどんなにたくさんのエネルギーのいる、重要な仕事であるか、だれかに頼んで自分は働きにでればいいというような問題でないことは当事者が一番知っています。子どもを育てる仕事と女性も社会的な仕事に参加して社会に貢献できる、あるいは経済的な力も持つということは自然で国が本来するべき重要な施策でしょう。女性が活躍することで社会がもっといろいろの人間的可能性を広げることはできるということはいえると思います。でも成長戦略の一環として女性の活用をと今言われていることはご都合主義で女性を利用しようとしているだけ、とても大事なことが抜け落ちているように思われてなりません。子どもを育てることができなくなったり、一層の過重労働と総体的貧困化に拍車がかかるようであってはならないと思います。

同じ産業競争力会議で深夜の電車やバスなどの運行をさらに広げようという政策が検討されているとニュースになったことがありました。深夜にバスや電車を動かす人がなければ電車は動きません。夜中に命に係わる重大な病気になった人が診てもらえるお医者さんがなければ困るでしょう。夜中に起きた火災の救助にむかってくれる消防士さんがなければ困りますが、深夜労働はできるだけ必要なものに限られるべきでしょう。そしてそういう仕事にはきちんとした対策が取られるべきでしょう。しかし夜眠ること、家庭に父や母がいることは人間にとって、子供にとっても大切なことです。経済活動が昼夜を問わなくなることによって働く人の仕事の仕方も変わる、疑問は膨らんでしまうばかりです。命が守られる政策は第一義的であるべきではないでしょうか。


前の10件 | -

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。