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考えるということ。 [日々のくらしから 家族、社会、自問]

 阿弥陀の本願ってどういうことだろう。私流に思った、もしかしたらちがうかもしれないが。阿弥陀様の本願って本当はすごいことなんだなと思う。この世界に生まれ、今生きている人もすでに物故となっている人も、どんな形で、どこで生きている人であっても、すべての人の苦悩、喜怒哀楽のすべてを心に刻んで、心から大切に思わずにいられないという。そこにあるのは通りいっぺんの善悪ではない。「考えること」は阿弥陀の願いのような生きとし生けるものへの分け隔てない慈愛、存在への深い理解と愛から出発し考えることなのではないだろうか。

 岩波ホールで「ハンナ・ハーレント」が今上映されている。行けるときに行かなくちゃとこれという予定がなかったので急ぎ出かけた。この日は秋らしい気持ちのよい晴天でした。適当、ゆるきゃらの普段のくせが災いして神保町についたときはとうに昼過ぎ、二時近く。二回目の上映がはじまってしまっているかしらと気が急いたが、間に合ったと思った時、満席のため券の発売が終了しましたという説明、仕方なく、夕方の上映まで待つことにしました。この日は古本祭りということで通りという通りが人と書籍にうめつくされていました。あまりの本の多さと人ごみに何か探そうという気分にもなれず人ごみを分けて進みながら、二、三度、立ち止まって、二冊購入。「うつと上手につきあう心理学」と「残したいね日本の風景」しめて400円でした。裏通りのコヒー店へ入って食事。シャンソンが流れる落ち着けるカフェでした。メニューはカレーとスパゲティだけですが、少し甘みのある、深みのあるおいしいカレーでした。買った本を拾い読みしてこちらも買ってよかったと満足、ゆっくりしたコヒータイムを過ごせて得した気分でした。

 肝心の映画は考えるということについて、なんどもなんども幾重にも深い問をつきつけられました。

 ハンナ・アーレントがエルサレムの法廷でのアイヒマンに発見したのは凡庸な人間の悪の無思考性でした。非人間的な状態が、あたかも当たり前でノーマルででもあるかのように進行するとしたら恐ろしいことです。理解しなければならないと思います。とても難しいことですが。

「思考しても人の英知など得られない。役に立たないのだ。思考しても世の中の謎が解けるわけではない。我々は生きている。我々には命があるからだ。」これはナチスの台頭を前にして(ナチス親衛隊に参加したハンナ・アーレントの師)ハイデッカーがハンナに語っている言葉です。

 戦後、ハンナ・アーレントはハイデッカーに再会しますが、「ここに来たのは理解するためよ」というハンナにハイデッカーはこんな言葉を語っています。 「私は無自覚で夢見がちは子供だった。私には政治的な才もない。だが、この間に学んだよ。今後はさらに学んで考え抜くつもりだ」と。

 見ること、感じること、思うこと、考えることによって希望につながると思いたい。


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風船かずら

ナイスをありがとうございます。画像認証が必要になってうまくいかず四苦八苦しました。今度はうまくいくでしょうか。
たこ様訪問ありがとうございました。
by 風船かずら (2013-11-12 22:03) 

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