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コミュニケイション下手 [日々のくらしから 家族、社会、自問]

 「愛と愛好はちがう」などの著者であるバスカリアさんは著書のなかで子供時代の家族について、「裕福ではなかったが、家族の全員がみんなの問題について、いろいろ意見を出し合って助けたり、どんな困ったことでも話を聞いてもらうことができた。それは小さな子供でも年齢や親子、兄弟の上下関係とかなく、一人ひとりの意見として対等に受け入れられた。だから、生きていくことに勇気をもらえた」と言っています。

 私は自分の子供のころを振り返ってどうだったかしらと考えます。母は優しい人でした。母が大好きだったという意味で母娘の一体感はあったと思いますが、バスカリアさんの言うような家族がみんなで意見を出し合って、助け合えたというところは随分違うなという感じがしました。

 本当にこんな暖かな、家族のみんながお互いを大切にして自分のこととして意見を出し合える家族だったら、少々の困難にであっても勇気をもらえることでしょう。しかし、日本では少なくない家庭で、家族だからこそコミュニケイションがむずかしい、本当は大事なこと、心の底で思っていること、本当は分かってほしい気持ちが伝えられることがなく、一人一人孤立化と家族の機能不全に陥ってしまっているなんてことはめずらしくないのではないかと思います。コミュニケイションが下手な理由はいろいろあるように思いますが、これって重要だなと思います。

 日本の家族の伝統の中にもともと自由な会話という伝統は少なく、一家の長や目上の人の考えに従うことが多い、直接言葉にしなくても何となく察するという配慮など日本人らしい心の使い方が生活の全般に行き渡っていたように思います。察するということには良い面もありますが限界があると思います。現代のストレスが過剰にひとりひとりに直接働く社会ではその一人一人の問題として表に表現されなければうちにこもって内向してしまうばかりです。昔からの伝統的なコミュニケイションでは限界があるのではないかと思います。

 私もそんなコミュニケイションのむずかしさをながいこと感じてきました。話せない、伝わらない、相手の考えや本当の気持ちがわからない、家族のことで悩んでいるときそんな苦しさを味わっていました。 生まれてこなければよかった、その言葉を何度聞いたことでしょう。辛いことは分かっていましたがどうして? わたしは親失格だなと思ったことも。

 最近二冊の本を読んでいました。

 コミュニケイションの下手な家族というのはそれまでの育ちのなかにあたたかな、お互いにとってプラスになるような会話の経験が少ないということがあるのではと思いました。夫婦が真剣に話合うことを当然とどれくらいの家族がしているでしょう。

 話し合いがない大きい理由は話し合いの必要を本当は感じていないからのように思います。小池龍之介さんが本のなかで現代人は一般的に「聞く」ということに心を向けて寄り添わせること、集中して人の話を聞くということが苦手になっているように思うと書かれていました。重要な問題であっても直面することから逃げていたり、はじめから限界やだめだと諦めたりしている場合があるようです。自分の立ち位置をこのようにはっきり固めてしまう、それも理解できないではないのですが、それではすまないことがたくさんあり、簡単では済まない問題ほどよほど力を合わせて、お互いの心が見えるようにしないとよい方向には向かわないのです。

 誰もが完全ではないのですから、時にはお互いにしんどい会話になってしまうことも避けられません。1人1人皆違い、そして一人ひとり不十分で欠点だらけでそれでも素の自分を出して理解しあう、そういうシンドさを覚悟しなければ現代という時代の困難さをきりぬけてはいけないのだと思います。本当に会話が成立するのは自分が変わりたいと真剣に思い、求めて求めて、きっとどこかに光があることを信じて自分が変わり続ける努力をすること、そこにコミュニケーションが生まれるのかもしれません。

  年初めに見た占い、大殺界の三年目、あまり良い年ではなさそうです。気になることが書かれていました。厳しい坂を越えなければならない年なのかもしれません。


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