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自然をとおくはなれて [読書]

  2013年、これまで生活していたのとはまるで違う展開を感じる年になりました。これまで経験しなかったような新しい時代がはじまっている印象です。今年の異常な気象、水害、原発の事故から始まった汚染水の流失の問題、国際的な問題、シリアやイラクを巡る緊張、アジアの問題の緊張。それは昔のままに、かって生活していたような暮ら方は通用しないよといわれているようでもあります。

 しかし私は自分があまりに遠く自然から離れているのを感じていました。もっと素朴に自然に暮らしたいと思っているのに、複雑に、自分が大切にしたいこと、生きることの原点、シンプルな羅針盤のようなものから離れて生きざるをえない、そんな日常を感じていました。そんなとき姜尚中さんの悩む力という本の中でこうした問題について考えているところに出会いました。

 唯脳論的世界という章で、十八世紀のカントのころまでの真、善、美とかかわる理想的な全人格的な知性のイメージが科学や合理化の進展とともに分裂を始め、次第に人々は科学の中に至高の客観性を見出していったこと、それによってかって世界に意味を与えていた伝統や俗信、宗教や形而上学は非科学的として、どんどん科学の世界から駆逐されていったことなどが説明されています。そして今という時代はどういう社会か。

 姜尚中さんはこんなふうに言っています。

 私たちの社会は、今すべての境界が抜け落ちたような状態になっていて、そこに膨大な情報が漂っている。人間の脳は際限なく、放置しておくと限りなく広がって、得手勝手にボーダーレスな世界を作り出している。 しかし、現実の肉体や感覚には限界があり、だから、反対に自分の世界を広げるのではなく、適度な形で限定していく。その場合でも、世界を閉じるのではなく、開きつつ、自分の身の丈にあわせてサイズを限定していく。そういうあり方があってもよいのではないか、わたしがまったく同じように感じたのはこの部分でした。

 身の丈に合う、自分の良心のようなものを生かせる調和ある限界を求めて行きたいと思います。


愛と愛好はちがう [読書]

 愛という言葉は結構広い意味でつかわれていて、ふつうにつかう好き、嫌いのような感情での愛情と好きや嫌いを超えた、関心とか相手を思うとかいう意味まであるように思います。自由の教育者ニイルは愛好と愛の違いを著作の中で愛は関心であるといっています。バスカリアの「愛するということ、愛されるということ』の中でも、本能に頼ることも深い愛に頼ることもできない、人間のかかわりについて研究に研究を重ねた技術が必要であると書かれた箇所をみつけました。
 愛好と愛の意味をもっと分けて考えてみることも大切なのではないかと思います。
 愛は存在するものへの関心、事実の直視であり、受容かもと思います。一方で、誰でも好悪や良し悪しとか美醜とかの選択をしているから、区分けや選別をしていることは避けられない。
 愛好の本能や深い愛をこえて、事実の直視、fifty、fifty の存在への愛、救いまでどうつなげるのか、政治にも個人にもこれからの課題なのかもと思いました。


自然の子、自由の子 [読書]

  今朝、生活ホット<NHK〉でいじめの問題を特集していました。
 わが子のいじめを知ったらどうしますかという問いかけの特集です。実際にあったことを基にして考えているのですが、最近放送されたライフを見ていたこともあって、改めて考えさせられました。そして、感想を含めて書いて見たいと思います。
 ライフを見ていたときは私には理解できないことがいくつかありました。なぜ、苦しんでいるのに、それも命に関わるほどにですが、親の前で何もなかったように子どもたちは振舞うのでしょうか。親に心配されたくない、みじめが自分を知られたくないという思いもあるのかもしれませんが、本当につらいことを言えない関係なのだとしたら、やはり親は考える必要があるではないでしょうか。いじめをしている親と子の関係も理解できませんでした。しかし今朝の特集で判ったように思うことが。根の深さ、簡単ではない、社会、文化の問題に気付かされたように思いました。ライフは誇張ではなかったのですね。子どもたちの反応のすごさにもおどろきでした。
 最近、いじめを苦にして自殺した痛ましい事件が報道されていましたが、ライフに登場したような、ひどい学校の実態も、ああ、必ずしも単なる虚構ではないのだと思いました。携帯のうらサイトを使ったいじめも深刻になっているということです。
 A・S・二イルが「自由の子」のなかでのべたこと、本当に理解できているのかわかりません。それくらい私には難しいのですが。
 
 いっぱい欠点があったり、不足があったり、いいところも悪いところも含めて、好きなものがあったり、嫌いなものがあったり、頑張りたい心も頑張りたくないことも、まずあるがままに存在を許される。あるがままの存在を外部も、自分も認め気付くこと。存在がまずあり、それは評価とは別だということでしょうか。
 しかしいまの社会は個人のすべてを評価し、管理し、社会の期待、親の期待にそうことを求められています。あるままを許されず、本当の意味で気付く自由さえ奪われているのかもしれません。そういう意味での自由があたえられていない。
 自分評価が低いという報告があります。
 ニイルは自分で自分のことを自由にすることが許される時、別のことばで言えば、自分を持ったとき、愛他的であり、その様子は自然で、力を発揮する。人間は本来善であると長い子どもとともにした生涯をとうして考えていました。
 でこぼこでも大切なんだ、いいんだといえる文化が子どもを救い、伸びる力となるのではないかと思いました。
 ニイル著作集のなかの『問題の家庭」のなかで、ニイルはつぎのようなことを記しています。
 十三歳の男児が、「この子は動物がすきなのです』といって母親が誕生日のプレゼントとして送ってきたのですが、子犬を残酷に扱うことにニイルは気つきます。男児はこの子犬を母の寵児である弟と同一視していたのでした。ニイルはいいます。子どもの困った状態をおこすコンプレックスの原因を知るだけでは、こどもをよくすることはできない。この事実を知るために長い年月を要した。それにさらに重要なことは、子どもを治すということだけが、教育者としての重要な任務ではない、ということを知ることである。子どもを治すということなどの必要のない新しい時代を生み出すことであると。子供を治すということなどの必要のない新しい時代とはどんな時代をいうのでしょう。それを考えることは大切だと思います。

 わたしはおばあちゃんになることはないだろうと思っていたのですが、新しい命が育っています。新しい命を大切にしたいそんな思いもこめて、これから、いいおばあちゃんになれるように勉強しようと思っています。


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