自由競争、自己責任という名の無責任 [日々のくらしから 家族、社会、自問]
前回に書いた柴田翔氏の文がどこかに残っているはずとさがしていたら、ワープロのフロッピーの中に残っていました。『近代的思考方法への疑念ーゲーテを追って迷い込んだ世界」という朝日に載った文です。
-人間個々の自立的な自己決定能力を前提とし、そうした人間たちの自由な結合体としての社会を構想したのがヨーロッパ近代だったとすれば、ここで表明されているのは、そうした近代の構想への根本的な疑念である。人間は、そうした自由に耐えうるほど立派な生き物ではないのではないだろうかー。
とのべたあと、柴田氏は、しかし、私にとって、人間の自己決定権は、今も否定できない価値であるといっています。
自由と一体の関係にある自己責任は人間が自由に耐えられるだけ立派な存在であることを前提にしています。
しかし、それほど立派な存在ではないとしたら、だといいうるのか、世界を動かす指導者でも、市井の人でもです。
自分の選択に迷い、人との関係、社会との関係に迷い、壁にぶつかり、疑いを持つのが、またそうあるべきなのが人間ではないかと思います。にもかかわらず、日本の今の社会は自由競争と自己責任があらゆる場面に浸透しています。教育の場でも生産や労働の場でも、それは家庭のあり方まで変えているように思えます。
なぜこんなに競争がすきになり、攻撃的になり、嫉妬やねたみ、底意地の悪い冷たい社会になっているのか。人に生かされ、人を生かして自分も生かされる安心が社会から失われるとしたら、生きることが殺伐としたものになるのではないでしょうか。
2007-03-29 11:57
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さらまわし様、ナイスありがとうございます。
by 風船かずら (2014-08-19 15:59)