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自然の子、自由の子 [読書]

  今朝、生活ホット<NHK〉でいじめの問題を特集していました。
 わが子のいじめを知ったらどうしますかという問いかけの特集です。実際にあったことを基にして考えているのですが、最近放送されたライフを見ていたこともあって、改めて考えさせられました。そして、感想を含めて書いて見たいと思います。
 ライフを見ていたときは私には理解できないことがいくつかありました。なぜ、苦しんでいるのに、それも命に関わるほどにですが、親の前で何もなかったように子どもたちは振舞うのでしょうか。親に心配されたくない、みじめが自分を知られたくないという思いもあるのかもしれませんが、本当につらいことを言えない関係なのだとしたら、やはり親は考える必要があるではないでしょうか。いじめをしている親と子の関係も理解できませんでした。しかし今朝の特集で判ったように思うことが。根の深さ、簡単ではない、社会、文化の問題に気付かされたように思いました。ライフは誇張ではなかったのですね。子どもたちの反応のすごさにもおどろきでした。
 最近、いじめを苦にして自殺した痛ましい事件が報道されていましたが、ライフに登場したような、ひどい学校の実態も、ああ、必ずしも単なる虚構ではないのだと思いました。携帯のうらサイトを使ったいじめも深刻になっているということです。
 A・S・二イルが「自由の子」のなかでのべたこと、本当に理解できているのかわかりません。それくらい私には難しいのですが。
 
 いっぱい欠点があったり、不足があったり、いいところも悪いところも含めて、好きなものがあったり、嫌いなものがあったり、頑張りたい心も頑張りたくないことも、まずあるがままに存在を許される。あるがままの存在を外部も、自分も認め気付くこと。存在がまずあり、それは評価とは別だということでしょうか。
 しかしいまの社会は個人のすべてを評価し、管理し、社会の期待、親の期待にそうことを求められています。あるままを許されず、本当の意味で気付く自由さえ奪われているのかもしれません。そういう意味での自由があたえられていない。
 自分評価が低いという報告があります。
 ニイルは自分で自分のことを自由にすることが許される時、別のことばで言えば、自分を持ったとき、愛他的であり、その様子は自然で、力を発揮する。人間は本来善であると長い子どもとともにした生涯をとうして考えていました。
 でこぼこでも大切なんだ、いいんだといえる文化が子どもを救い、伸びる力となるのではないかと思いました。
 ニイル著作集のなかの『問題の家庭」のなかで、ニイルはつぎのようなことを記しています。
 十三歳の男児が、「この子は動物がすきなのです』といって母親が誕生日のプレゼントとして送ってきたのですが、子犬を残酷に扱うことにニイルは気つきます。男児はこの子犬を母の寵児である弟と同一視していたのでした。ニイルはいいます。子どもの困った状態をおこすコンプレックスの原因を知るだけでは、こどもをよくすることはできない。この事実を知るために長い年月を要した。それにさらに重要なことは、子どもを治すということだけが、教育者としての重要な任務ではない、ということを知ることである。子どもを治すということなどの必要のない新しい時代を生み出すことであると。子供を治すということなどの必要のない新しい時代とはどんな時代をいうのでしょう。それを考えることは大切だと思います。

 わたしはおばあちゃんになることはないだろうと思っていたのですが、新しい命が育っています。新しい命を大切にしたいそんな思いもこめて、これから、いいおばあちゃんになれるように勉強しようと思っています。


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小坊主つばめ

自分評価が低いという報告もあります。

僕は、ここが、非常に引っかかりました・・。
by 小坊主つばめ (2007-09-24 18:14) 

風船かずら

小坊主つばめ様、コメントをありがとうございます。自分評価が低いという報告もあるということについて、引っかかっていらっしゃるということですが、この部分について、わたしが考えたことを申し上げます。まず、自分自身、自分をどう感じているかというと、とても評価は低いのです.それなのになぜ,ブログなどはじめたのか、ダンスを自分の教室のパーティとはいえ、人の前で踊ったりするのか、自分でも信じられないくらいです。たぶん、もっとこうなりたいという思いがあるのだと思います。私の周囲には、自分に自信があるという人はあまりいないように思います。逆に自分がすきになれないとか、嫌いとか、自分が社会の中で存在することについて積極的な意味を見出せないとかと考える人は多いように思います。しかし、本当の願いはこの世の中で心から笑ったり、喜んだり、生きていることが必要だと実感したいから必死に努力しているように思います。どうしてそんなふうに感じなければならないのでしょう。自分のことで言えば、あるとき、もう無でいいなと思ったことがありました。別に自分が嫌いというわけではなく、あまり、生きている必要もないように、思ったというか、そんな感じですが、その後、自分はまだ、生きていなければならないんだと身近な存在に思わされたことがあったのです。いま、若い人が自分評価が低いというのはある大学の先生がいわれていたことでもあるのですが、そうでないかもしれません。それはとても嬉しいことです。
by 風船かずら (2007-09-24 21:50) 

小坊主つばめ

「銃夢」(ガンムと読みます)という、僕が熱烈に好きな漫画があるんですが、「生きていることに意味はない。意味は必要ない」
というようなフレーズがありまして、勇気付けられた事があります。

人間の価値観・人間の評価・人間の思考能力の範疇でいえば、生きていることに対して永遠に理由や意味はないんだな・・。と思いました。また、それでも、生きている。これは、もう不思議としか言いようがないし、それで良いと思います。
「誰かに必要とされているから」
とか
「守るものがあるから」
とかすら必要ない。
「○○の為の人間」なんて、工場のベルトコンベヤーにのって製造された人間みたいで、こわいですからね。
by 小坊主つばめ (2007-09-25 20:15) 

風船かずら

小坊主つばめさま。ああ、そうですね。ストンと胸におちた感じです。
by 風船かずら (2007-09-26 16:28) 

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