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シンプル [日々のくらしから 家族、社会、自問]

人生って想像したり考えたりするより、明確でシンプルなのかもしれないなんて最近思っている風船蔓です。

それをごちゃごちゃにしたり、複雑にしたり、自分を困らせたりとカオスにするのは人間なのかもしれない。


細木数子さんの六星占術を読んでいました。人間の世界というのはひじょうにきびしい因果の法則が成立していると細木さんは書いています。本当にそうですね。釈迦もすべてのことが因果の上に成り立っていると説きました。因果の行く末に心を払わない、もしくは不明、自分が望まない結果を招来するとしたら人間ってかなしい存在ですね。
一即多、多即一であっても、一である私は本当に小さな微粒子のようなもの、自分の手足の届くところで考えます。自分も他人をもできるだけ傷つけないようにと。

そしてあなたを大切に思っている、幸せであることを祈っていると伝えたい。

 今日の昼ごはん、なににしようか。生活防衛一段とがんばって。一山五百円のトマトと玉ねぎを使って。玉ねぎはちょっと品が落ちますが、使いでがあります。庭の朝どれハーブを使って。

 サケの塩焼き、とまとサラダ、きゆうりとなすのめかぶとろろあえでした。


懐かしい風景

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 先日ヨモギを摘んでいる人に出会いました。頼まれているのだそうですが、自分で草餅を作ることは今はなくなったといっていました。ヨモギがたくさん生えているところを見ること自体、あまりなくなったこの頃ですが、懐かしくなって写真を撮りました。

 子どもの頃、ヨモギ摘みは子供の仕事でした。桃の節句につくる草餅の材料にするためです。かごにいっぱい、まだ冷たい北西の風が吹く中で、地面を緑色に覆い始めた新芽を積んでいくのです。懐かしい思いでです。

 何年かまえ、姉の手作りの草餅を食べたことがありました。孫の桃の節句にあられを作ってあげようと、切り餅をさいの目に切って挑戦したのですが、さいの目が大きすぎたことと、乾燥が十分でなかったことで中が膨らんでしまって見事に失敗でした。来年は手作りあられを作ってあげようと思っています。


散歩の足をのばして。

 昨日とはうってかわったような快晴、散歩の足を佐倉までのばしました。何十年ぶりかです。佐倉城址ははじめてです。さすが徳川幕府、家康の肝いりで造られたといわれる城址だけに広くて、見ごたえがありました。素晴らしい散歩になりました。

 佐倉に電車が近づくころには一気に車窓に広い田んぼの風景がひろがって、嬉しくなりました。駅前の大通りではブロンズの彫刻たちが出迎えてくれます。こんなに広々と開放的な街だったかしらと思いながら、城への道をたどりました。

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  川岸に並んだ桜並木、咲いたらとてもきれいでしょうね。まだ少し早いようです。どこまでも頭上にひろがる青い空、高い建物があまりないためが視界を遮るものがありません。

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 城の土塁

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 土塁の内側は当時下級武士の屋敷があったところとか。

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 出丸 

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 空堀

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 天守台

  歩くことがどうしても不足しているようなので、散歩の距離を少し伸ばそうと思っています。 今日は三時間くらい歩きました。十分な運動になりました。


大人になることのむずかしさを読んで  3 [日々のくらしから 家族、社会、自問]

 なぜ現代モラルハーザードともいわれるようなことが進行するのでしょう。ニュースを見るのが怖いし、暗い気持ちにもなったりします。しかし、暗い気持ちにばかりなっているわけにはいきません。未来はもっと明るい希望のあるものでなければならないと思います。未来の彼らが平和のうちに力強く生きていけることを願わずにいられません。

 話を「大人になることのむずかしさについて」の感想に戻そうと思います。

 この書物のなかで河合さんは厳密に言えば大人といっても日本的大人なのか西洋人的大人なのかという問いが成立するほどこの問題は難しいということを言われています。日本人の自我の形成と西洋での自我の形成にはちがいがあるからで、日本人がその自我を作り上げていく過程で、西洋人とは異なり、はっきりと自分を屹立しうる形で作り上げるのではなく、むしろ自分を他の存在のなかに隠し、他を受け入れつつ、なおかつ、自分の存在をなくしてしまわないという複雑な過程を経てこなければならない。しかし、それが、他にたいする配慮のあまりに常に他の人はどう考えているのか、他の人に笑われないようにしようということが強くなりすぎて、西洋人からは「自我がない」というようなことになってしまいかねない。しかし両者のあり方は一長一短であり、軽々しく判断を下すべきではないと筆者は考えていると述べていらっしゃいます。大人になるということの中には絶えず自分としての自己の在り方と相手との関係ということがあるわけで、西洋人の他と切り離して個として確立しており、自分の存在を他に対して主張していく西洋流も行きつまりが見えてきて、今最も大切なことは従うべきモデルがないということを、はっきり認識することではないかという河合さんの指摘は迷い悩み苦しんでいる若者にとっても大人にとっても考えるうえで重要だと思いました。そこから自分たちの課題、やるべきことが見えてくるのかと思います。

 日本人的な自分のつくり方にしろ、西洋人的な自我の形成にしろこれからの時代がすべての人間の尊厳が守られ、平和の裡に自分を成長させながら、自己実現が可能なような世界であってほしいと願うのですが、人にできることは自分についてにつきるのでしょう。

 先ごろ、NHKのクローズアップ現代で若い女性の貧困がとりあげられていました。若い女性の多くが不正規労働で、仕事先も不安定、賃金が安く、労働時間も長い中で子育てをしたりしています。仕事と育児と経済的貧困などの中でぎりぎりの生活をしている人も多い。希望なんてない、夢もないという若い女性たちの言葉。彼らがこれから子どもを育て、社会の中心になる人たちであることを考えたとき、若い人たちの前に立ちはだかる壁の大きさ、彼女たちが背負っている課題の大きさに心がいたくなりました。人として成長していくことと社会の成長、特に経済的成長とはどんな関係にあるのでしょう。本来は別の問題だと思いますが、関係するとしたらどんなふうに関係するのか考えてみることが重要だと思いました。生きるために食べなければならない、そのことが自立や自己決定を阻んでいるということはないでしょうか。食べることができない、命を維持することが難しいという状況があればあるほど心を拘束する社会の支配の仕組みは強固になるのではないかと思うのですがどうでしょうか。

河合さんは「この本を大人がどうすればよいかという視点より、青年たちはいかに苦悩しているかという視点で書き進んだ。我が国の青年の直面している問題を共に考えていこうとするものである」といわれています。この本を読み終わって、若い人たちの一つ一つの出来事にこせこせしないでゆっくり、ゆとりのある気持ちでいたいと思いました。


考えるということ。 [日々のくらしから 家族、社会、自問]

 阿弥陀の本願ってどういうことだろう。私流に思った、もしかしたらちがうかもしれないが。阿弥陀様の本願って本当はすごいことなんだなと思う。この世界に生まれ、今生きている人もすでに物故となっている人も、どんな形で、どこで生きている人であっても、すべての人の苦悩、喜怒哀楽のすべてを心に刻んで、心から大切に思わずにいられないという。そこにあるのは通りいっぺんの善悪ではない。「考えること」は阿弥陀の願いのような生きとし生けるものへの分け隔てない慈愛、存在への深い理解と愛から出発し考えることなのではないだろうか。

 岩波ホールで「ハンナ・ハーレント」が今上映されている。行けるときに行かなくちゃとこれという予定がなかったので急ぎ出かけた。この日は秋らしい気持ちのよい晴天でした。適当、ゆるきゃらの普段のくせが災いして神保町についたときはとうに昼過ぎ、二時近く。二回目の上映がはじまってしまっているかしらと気が急いたが、間に合ったと思った時、満席のため券の発売が終了しましたという説明、仕方なく、夕方の上映まで待つことにしました。この日は古本祭りということで通りという通りが人と書籍にうめつくされていました。あまりの本の多さと人ごみに何か探そうという気分にもなれず人ごみを分けて進みながら、二、三度、立ち止まって、二冊購入。「うつと上手につきあう心理学」と「残したいね日本の風景」しめて400円でした。裏通りのコヒー店へ入って食事。シャンソンが流れる落ち着けるカフェでした。メニューはカレーとスパゲティだけですが、少し甘みのある、深みのあるおいしいカレーでした。買った本を拾い読みしてこちらも買ってよかったと満足、ゆっくりしたコヒータイムを過ごせて得した気分でした。

 肝心の映画は考えるということについて、なんどもなんども幾重にも深い問をつきつけられました。

 ハンナ・アーレントがエルサレムの法廷でのアイヒマンに発見したのは凡庸な人間の悪の無思考性でした。非人間的な状態が、あたかも当たり前でノーマルででもあるかのように進行するとしたら恐ろしいことです。理解しなければならないと思います。とても難しいことですが。

「思考しても人の英知など得られない。役に立たないのだ。思考しても世の中の謎が解けるわけではない。我々は生きている。我々には命があるからだ。」これはナチスの台頭を前にして(ナチス親衛隊に参加したハンナ・アーレントの師)ハイデッカーがハンナに語っている言葉です。

 戦後、ハンナ・アーレントはハイデッカーに再会しますが、「ここに来たのは理解するためよ」というハンナにハイデッカーはこんな言葉を語っています。 「私は無自覚で夢見がちは子供だった。私には政治的な才もない。だが、この間に学んだよ。今後はさらに学んで考え抜くつもりだ」と。

 見ること、感じること、思うこと、考えることによって希望につながると思いたい。


みどりのカーテン

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 日よけに植えたゴーヤ、一本でこんなに育ちました。すごい生命力、それにみどりが大好きなので癒されています。

夏の疲れが出ないように毎日ゴーヤジュ-ス、家人は気持ちが悪いものは飲まないと飲んでいるのはわたしだけ。病気になってもしらないからね。

 ゴーヤ、ニンジン、はちみつ、キューイ、などそのときによって入れるものはいろいろ。


自然をとおくはなれて [読書]

  2013年、これまで生活していたのとはまるで違う展開を感じる年になりました。これまで経験しなかったような新しい時代がはじまっている印象です。今年の異常な気象、水害、原発の事故から始まった汚染水の流失の問題、国際的な問題、シリアやイラクを巡る緊張、アジアの問題の緊張。それは昔のままに、かって生活していたような暮ら方は通用しないよといわれているようでもあります。

 しかし私は自分があまりに遠く自然から離れているのを感じていました。もっと素朴に自然に暮らしたいと思っているのに、複雑に、自分が大切にしたいこと、生きることの原点、シンプルな羅針盤のようなものから離れて生きざるをえない、そんな日常を感じていました。そんなとき姜尚中さんの悩む力という本の中でこうした問題について考えているところに出会いました。

 唯脳論的世界という章で、十八世紀のカントのころまでの真、善、美とかかわる理想的な全人格的な知性のイメージが科学や合理化の進展とともに分裂を始め、次第に人々は科学の中に至高の客観性を見出していったこと、それによってかって世界に意味を与えていた伝統や俗信、宗教や形而上学は非科学的として、どんどん科学の世界から駆逐されていったことなどが説明されています。そして今という時代はどういう社会か。

 姜尚中さんはこんなふうに言っています。

 私たちの社会は、今すべての境界が抜け落ちたような状態になっていて、そこに膨大な情報が漂っている。人間の脳は際限なく、放置しておくと限りなく広がって、得手勝手にボーダーレスな世界を作り出している。 しかし、現実の肉体や感覚には限界があり、だから、反対に自分の世界を広げるのではなく、適度な形で限定していく。その場合でも、世界を閉じるのではなく、開きつつ、自分の身の丈にあわせてサイズを限定していく。そういうあり方があってもよいのではないか、わたしがまったく同じように感じたのはこの部分でした。

 身の丈に合う、自分の良心のようなものを生かせる調和ある限界を求めて行きたいと思います。


お昼なんにしょ。

ほぼ一年近く血圧を測らなかった。いつも安定して百十から百二十くらいを維持していたし、早朝も余り高くなることもなかったので測らなかったのですが、久しぶりに測ってみると日中でも百五十をこえていました。翌日は百八十に。もしかしたら塩分を取りすぎていたのではと。どうも味付けが濃くなっていると自分でも思っていたのです。自分だけのことではない。家族の健康にもかかわってしまう。でも栄養管理、簡単ではないですよね。食費も抑えて、簡単で栄養バランスも考えて、、、もう少し真剣に考えなければ、、、、と。

 一週間の間に使う食材、栄養、値段、基本の定番メニューなどを作って行こうと思います。

 今日のお昼は、ストックの食材で。料理意欲あまりないから、できるだけ簡単に。

 好物のお焼き二種。リンゴ、はちみつかけヨーグルト、紅茶です。

 お焼き材料は

  納豆(包丁で細かく)、ネギみじんぎり、紅ショウガ(細かく千切り)、みそ少々、残りご飯をすり鉢で混ぜ合わせて、焼けたフライパンで適当な大きさにして焼く    

  ベビーホタテ(横半分に薄切り)、ニンジン(薄切り)、ネギななめ薄切り、卵の白身 塩、こしょう、片栗粉、ゆずポン酢

  出来上がったものは塩味がとがっていてイマイチでした。自己採点星ひとつ。

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本をだすにあたって

 書くということはどういうことだろうか。書くことによって自分を確かめつつ見ることが自分の助けになってきたことは確かなのですが、そんな行為をなんらかの形で表し自分以外の人に触れるようにするかどうかは書くこととはまた別のこと。本にして出版することは次元のちがうことです。だから迷うことがいくつかありました。

 その主なことはどうして自分以外の人にも読んでもらおうと思うのかという点です。自分が傷つくのはどんなに傷ついてもいいが、書かれた内容が書き手の主観にすぎないという前提をはずして読者が読むと、作品内容が客観的現実であるかのように受け止められる危険があることです。一番恐れたのはそのことですが、書かれたものは作者の主観に過ぎないという前提で読んでもらえたらと私は考えています。

 それでは非力のなかで私は何を書きたかったのか。

 本の概要は勉強ぎらいで努力することもあまり好きではない、それまではおおらかにのんびり、自分の好きなことには一生懸命になるごくごく普通の少年が、勉強もしないで受験競争に勝てるわけはなく、不合格となり、それまでの自分の世界を失います。社会に出て自分の生き方を求めての試行錯誤が始まりますが、彼は孤独でした。人と人のコミュニケション、他者を理解することのむずかしさ、それを家族との関係の中で追及してみたかったということかもしれません。親の問題、親の世代の問題、現在の子供を巡る環境、社会の変容、生きるということさまざまなものが見えてきました。家族がなぜ困難なのか、今度の作品でそれを十分とらえ表現できたとは思えません。さらに未来を志向しつつ次を書けるかどうか、わかりませんが書けたら書きたいと思っています。 でも書くことはいろいろな意味でしんどいことだなあと思いました。


非力の意味

 なぜか一週間が忙しく過ぎていく。振り返るとこれといってなにもしてしない。家事をもう少し整理して快適にと思っているのにちっとも進んでいないのは自分でも情けない。きっと頭の中だけが忙しかったのだと思う。

 少し無理をしているのですが、今年もダンスの発表会をすることにしたので、衣装を下見に。どんぴしゃっていうのはむずしいですね。振付が完了したので、あとは練習です。タンゴらしく踊りたいです。

 本はやはり出版することにしました。初めての本なので少し、楽しみです。非力(ひりき)ということは哀しい、非力ということについて、社会的な意味もふくめて考えてみたいと思いました。


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